2021.08.04 外壁塗装ブログ
連日ポスティングで、城東区内をテクテクと歩いております。
そうすると、なぜこのような地形なのか、どういった歴史があるのかについて気になり調べてみました!!
※参考として城東区のHPより一部引用しています。
大昔の城東区域は、上町台地の東側の入り組んだ海だったようです。
そして淀川と旧大和川が運び込む土砂によって次第に陸地化しました。
標高は1~2メートルと全般的に低く平坦で、当区域が入り海だった時代には、難波江、難波潟と呼ばれていました。
その後、陸地化してからは旧大和川が南北に流れ、大阪冬の陣では、大和川を挟んで今福と対岸の鴫野が戦場であったといわれています。
江戸時代初期には、現在の地名のもととなる村々がほぼ成立していましたが、淀川と大和川の合流点に近く土地が低いため、昔から数え切れないほどの洪水に見舞われていました。
宝永元年(1704年)に大和川が現在の流路に付け替えられてからは、洪水が減少し、旧大和川の河川跡には、新喜多新田・左専道新田・布屋新田などが開かれました。
昔の城東区内に住んでいた方は、長きに渡って水害の被害に耐えながら生活されていたのですね。
数百年数千年と大変だった土地も、土木や建設技術の向上で住みよい街に変わったことは、先人たちの大変な功績だと思います。
毎日歩く道も、歴史を感じながら通ると違った見え方がしてきますね。